HOME


本の周辺

2006.8.31更新

  子どもの本について気づいたこと、感じたことを書いています。
読み手は黒子 2006.8.31
 「淡々と読め」とよく言われる。読み聞かせの研修で講師の先生が実演するのを聴いていても、実に淡々と読んでおられる。そういうとき、後で必ず聴衆から「怖いオオカミやトロルはもっと怖そうに読むのがいいのでは?」という質問が投げかけられる。

 それに対して講師は、「大げさに脚色して読むと、本ではなく読み手が相手に伝わる」と答える。また、「どれくらい怖くするか、怖さの程度を決めるのは読み手ではなく聞き手自身である」とも言う。読み聞かせを勉強しながら4年間やってきてようやく、どの程度淡々と読めばいいのか、それが私にも実感としてわかるようになってきた。

 「淡々と読む」というのは、わかったようでわからない言葉だ。私も仲間たちもこのことではさんざん試行錯誤を繰り返した。

 最初のころは鬼や怪物のセリフはいかにも怖そうに声を作って読んでいた。その方が子どもたちも楽しいだろうと思っていたのだ。だが、淡々と読むのがいいと聞いてからは、なるべく感情を込めず、感情を押し殺して読むように心がけた。

 するとどうなるか。自分自身読み聞かせが楽しくなくなる。無表情にただ文章を読んで声に出しているだけの機械人形になってしまう。当然子どもたちにはそのお話の面白さが充分伝わらなかっただろう。

 このやり方はダメだ。それがわかってからは、自分も物語の世界を楽しみながら、情景を思い描きながら読むことにした。そうすると意識しなくても楽しい場面では自然に声が弾むし、悲しい場面では声がしぼむ。怖い怪物が出てくる場面でも、不必要に声色を使うことなく読み進めることができた。

 これでもかと大げさな声色を使って読むのではなく、かといって読んでいて自然にわき上がってくる感情を押し殺すこともなく、本の内容が聞き手にまっすぐ伝わるように自然体でやればいいと、最終的にようやく気づいたのである。

 一番いいのは、自分は本の世界を伝える黒子なんだという気持ちを持っていることだ。そういう意味では文楽がもっとも読み聞かせに近いかもしれない。人形を操っている人は顔や姿をさらしているけど、鑑賞の邪魔にはならない。自然と背景に溶け込んでいる。そして観客は人形の動きだけを楽しむことができる。あれと同じだ。

 黒子だと思うと、服装や化粧も自然と控えめになる。あくまで本が主役だという意識が芽生えてくる。黒子の発想、ぜひ心の中に留めておいてください。

「メリーゴーランド」の増田喜昭さんの講演を聴いて
 平成18年2月28日、福井県教育委員会が主催する「子どもの読書活動推進フォーラム」に行ってきた。三重県四日市市の子どもの本専門店「メリーゴーランド」の店主、増田喜昭さんの講演を聴いた。とても話題豊富な人で、子どもの本だけでなく、子育ての話や交流のある河合隼雄、荒井良二、あべ弘士、谷川俊太郎、灰谷健次郎、江國香織などとのエピソードも聞けて楽しかった。

<印象に残った話としては……>
・子どもにとって読書は実体験と同じ。
・本を読むということは、その本を面白いと感じる自分や作者と結びつく自分など、本の中に自分を見るということなのだ。
・学校図書館のひどさへの怒り(本を置いているだけの倉庫にすぎない。保健室に養護の先生がいるように、学校図書館にも司書がいてしかるべきだ)。
・荒井良二がスウェーデンのリンドグレーン賞(子どもの本のノーベル賞)を取った。日本人では初めて。ものすごい偉業なのに、マスコミはまったく取り上げもしなかった。
・本を愛している国は本屋や図書館で、本を魅力的に見せる演出をしている。日本は子どもの活字離れと騒ぎながら、効果のある策をとっていない。

<増田さんお勧めの本>
 『本を読むっておもしろい』エズメイ・ラジー・コデル
 教室の窓に銃弾の痕があったり、食べ物があると吐くまで食べ続ける元ホームレスの児童や、ギャングとの銃撃戦で傷を負った父親がいる家に帰りたくない児童がいたりする、そんなシカゴのスラム街の小学校で、子どもたちの教育に力を注いだ24歳の新米教師の、度肝を抜かれるような実にユニークな実践が書かれている。






 『うんちっち』ステファニー・ブレイク
 「うんちっち」しか言わないうさぎの子どもシモン。ある日ばったりオオカミに出会ってしまう。オオカミは「おまえを食べちゃうぞ」と言うが……。

 ええっと驚き、子どもらしいなあと大笑いしてしまう展開。読み聞かせると、子どもたちは大喜びするらしい。ナットク。





 『おじいちゃんがおばけになったわけ』エヴァ・シモンズ
 死んでしまったおじいちゃんが、その晩、孫のところへおばけになって会いに来た。そのわけは……?

 増田さんいわく、「結末が文学です」。






 『天国からはじまる物語』ガブリエル・ゼヴィン
 16歳の誕生日を前に死んでしまった少女リズは、天国へゆく。そこでは人間は毎年1歳ずつ若返っていくという。大人になることができないリズは、自分の若すぎる死を受け入れられない。しかし、双眼鏡を通して地上の様子を見るうちに、徐々に心を開いてゆき、ひとりの青年に恋をする……。






 『ファンタージエン 秘密の図書館』ラルフ・イーザウ
 『はてしない物語』の作者ミヒャエル・エンデの弟子が書いた、同作品の続編とも言える本。ラルフ・イーザウはファンタジーの傑作『ネシャン・サーガ』の作者でもある。







 『ゲド戦記』アーシュラ・K・ル・グィン
 スタジオジブリが映画化することで今、注目を集めている本。アースシー(EARTHSEA)という世界を舞台に、魔法使いゲドや彼を巡る人々を描いた壮大な物語。全6巻ある。近々ソフトカバー版が出る予定。

 増田さんいわく、「ゲドはハリー・ポッターみたいに対戦のために魔法を使ったりしない。自分と闘うために使うんです」。

 子どもの本に深く関わる人でハリー・ポッターを批判する人は意外と多くいるみたいだ。増田さんだけでなく、ある著名な図書館の司書さんもそうだった。私は確かにゲドの方が深いと思うし、ハリポタはゲームみたいな感じだなということはわかるのだが、どうしても読んでいて華やかで軽いハリポタの方が面白いと感じてしまう。まだまだ修行が足りんということだろうか。

『百まいのきもの』エリノア・エスティーズ文 ルイス・スロボドキン絵 石井桃子訳(岩波書店)
 いつも同じ服ばかり着ている貧しい女の子がいて、そのことで二人の子どもからいじめられているのだが、それをいじめる側からの視点で描いた本。最後に女の子は100枚の洋服の絵を描いて、それを置いたまま引っ越してしまう。いじめていた子たちはその絵を見て、いつも家には100枚のきもの(服)があると言っていた女の子が、言葉どおりたくさん服を持っていたんだなと思う。いじめていた子たちはそれぞれ絵をもらって帰るが、そのうちの一人は、その絵に描かれているのが自分の姿だということに気づく。急いでもう一人の家に行ってみると、その子もまた、もらった絵に描かれていたのが自分だったことに気づいていた……というお話。

 最後に講演会場で買った、増田さんの本を紹介しておく。
 『子どもの本屋、全力投球!』増田喜昭
「悪いこと言わないからやめたほうがいい」と先に子どもの本専門店を始めた店主さんから忠告されても、敢えてこの世界に飛び込んだ増田さんの、店を開き、軌道に乗せるまでを描いた本。

 子どもたちのために儲けにならないことにこんなに一生懸命になってる大人が全国にいる。それだけで日本人もまだまだ捨てたもんじゃないなとうれしくなってくる。



 『ヨムヨム王国』斎藤次郎+増田喜昭
 とにかく面白い本を紹介しようというコンセプトで作られた本。この本全体を国にたとえて、「びっくり島」「そんなバカな島」「厚いけどイケてる島」などなど、島ごとにテーマを分けて紹介している。本の旅のガイドブック。児童文学の作者に直撃インタビューもあって、ファンにはうれしい。私は上橋菜穂子さんのインタビューがあったんで、迷わず買いましたよ。


いい本を選ぶ目を持つためには
 読み聞かせの研修に行って来た。最後に質疑応答があって、いろいろな質問が出たが、その中に、絵本の選び方は? いい本を見分ける力をつけるためにはどうすればいいか? という問いがあった。これは読み聞かせをする者にとっては常に悩ましい問題だと思う。

 学問に王道なし。その言葉の通り、講師の答も、とにかくいい本をいっぱい読むこと、それでしか見る目を養うということはできないとのことだった。いい絵本にはいい絵本の条件がそろっているという。

 また、子どもが喜ぶロングセラーの絵本を読み、子どもの反応を体感するという場数をたくさん踏んでいると、新刊の中からいいものを選び取る力がつくということも言われていた。

 以前に別の研修で私が聞いた話では、昔話をたくさん読み込んでおくと、いいお話のパターンというものがわかり、いい本かそうでないかを見分ける力がつくという。ここでいう昔話とは、もちろん、きちんと再話のされたもののことである。

 昔話の権威は小沢俊夫マックス・リュティであるということも合わせて聞いたので、こういう人たちの本を読むのもいいのではないだろうか(と言いつつ、紹介している私はまだ読んでいません。あかんやないか;)。

きたやまようこ講演会に行ってきた
 6月25日、絵本作家のきたやまようこさんの講演会があった。そこで聞いた話を簡単なメモにまとめた。

「わたしの絵本の世界」 きたやまようこ

・テーマは決めず、ストーリーもあまり考えずに身の回りに転がっている題材で書き始めると、普段、自分が考えていることが出てくる。だから、日々の生活を大切に暮らすことが重要。
(きたやまさんは、神奈川に家があるが、北海道の帯広に一目ぼれして6000坪のカラマツ林を買い取って家を建築。ときどきそこで暮らしている)
・お気に入りの主人公が出来たら、描いて切り抜いて壁に貼り、今日あったことなど、いろんなことを話しかける。そうするといつか絵が話しだすので、その言葉を書きとめていく。
・主人公の必然性を考えてお話を作る。うさぎならうさぎらしい生活の仕方、うさぎらしい友達の作り方というものがある。それを描けないのなら、主人公をうさぎにする必要はない。
・絵で語れるものはすべて絵で語る。言葉は練って必要最低限に。
・作者が伝えたいメッセージより、読者がどう受け取るか。本に書かれた短い言葉の奥行きを作るのは読者の人生体験である。
・自分以外のものを描くと自分が見えてくる。人間以外のものを描くと人間が見えてくる。

<エピソード>
・『ゆうたくんちのいばりいぬ』を書いたとき、「おれ」「おまえ」という言葉が子どもには乱暴ではないのかと編集会議で問題になった。きたやまさんは内容に合った言葉が美しい言葉だと思っているし、これらの言葉を否定されるということは作品じたいを否定されることだと思ったので、変えるなら本にしなくてもいいと答えた。出版社の市場アンケートの結果、問題はないだろうということで出版され、ヒット作となった。
・娘さんが小さいころ、「大きくなったらだんごむしになりたい」と言うので、立派なだんごむしになれるよう、体をつついたらとっさに丸くなりなさいと親子で訓練した。『りっぱな犬になる方法』という本はHOW TOものとして書いた。大人にとってはフィクションだが、子どもにとってはノンフィクションの本。

 きたやまさんは大の犬好きで、ハスキー犬を1年がかりでしつけた話や、保健所で殺処分されかけた犬をもらって育てた話など、興味深い話がいろいろ聞けた。犬も人間の子どもと同じで、言葉をいっぱいかけてやると理解するようになるということ(最初の犬は食べ物などの名前を上げていくと、自分が欲しい物のところでうなずいたそうな)、イスとイヌの区別のついていない人間が多すぎるということ(年間13万頭もの犬が保健所で殺処分されている)が印象的だった。

時代の最先端?
 『月刊たくさんのふしぎ』11月号『わたしのスカート』を読んだ。ラオスの村の少女が麻の種を蒔き、おばあちゃんやお母さんに手伝ってもらいながら自分のスカートを作り上げるまでの話だ。日本になじみの薄いラオスの子どもたちの生活がわかって面白かったのだが、最後にこんな表現にぶつかった。

「元旦の朝、村では、お互いの家に呼んだり呼ばれたりして、ごちそうを食べます」

 元旦の朝!? 元旦はもともと元日の朝のことでしょ。旦の字は地平線から昇る太陽を表わしているんでしょ。「元旦の朝」じゃ「馬から落馬する」と言ってるのと同じじゃない。

 あの福音館書店がこんな間違いをするとは。編集者の質が下がってるのかしら。創始者である松居 直氏の著書を読むと、外国の画家がヤギの目の虹彩の切れ込みを縦に入れたのを、正しく横に入れるように申し入れて描きなおしてもらったといったエピソードに見られるように、細かい部分まで神経を張り巡らせ、良質の絵本を作ろうと切磋琢磨したのが伝わってきて、思わず頭が下がる。
 その福音館書店の仕事とはとても思えない。

 これは見過ごせんと思って福音館書店にメールを入れてみた。ご存知かもしれないが、福音館書店のサイトには問い合わせ用のメールアドレス表示がない。あるのはリンク許可依頼用(リンクするのに許可がいるというのも驚きだが)のアドレスだけだ。編集者に伝わるか不安だったが、とりあえず送った。

 すぐに担当した編集者から返信が来たのはさすがだと思ったが、回答がふるっていた。編集部が日本語表記の参考としている朝日新聞の校閲部に問い合わせたら、ここ10年ほどで「元旦」の意味が「元日」の意味に変わってきつつあるということだったので、「元旦」を「元日」と同じ意味として使ったというのだ。

 また、著者である安井清子氏からも、「お互いの家に呼んだり呼ばれたりして、ごちそうを食べる」というモン族の習慣は特に「朝」に行うことであり、この点を強調したいという意見をいただいたので、このような表記になったということだった。

 なんかわかったようなわからないような……( ̄〜 ̄;)??

 「元日の朝」ではなく「元旦の朝」と朝を二重にダブらせて書けば、元日の「朝」に行うことを強調することになるのだろうか?
 じゃあ、「馬から落馬する」と書けば、落ちたことを強調できて痛さもより伝わることになるのだろうか?(^^;)
 著者の安井氏はNGOのメンバーで、タイの難民キャンプとラオスで子どもたちのために図書館活動に携わっている人だ。その仕事は貴いと思うが、もともと作家ではない、つまり文章のプロじゃないということだよね。磨きぬかれた言葉を使うことに対するこだわりがないということだよね。そういう人の感覚的な思い込みで、本来は間違っている言葉をすんなり受け入れちゃっていいの?

 私の他にも数人から同じ指摘をもらったとのことだが、それじゃ指摘しないで黙って「間違ってるよね」と感じてる人は少なく見積もってもその数十倍はいるということだろう。

 だいたい、ここ10年ほどで言葉の意味が変わってきているからといって、今のところ正しいか間違っているかボーダーラインの「元旦の朝」という表記を、出版社が、それもこれから正しい日本語を覚えていこうという子どものための絵本に、先走って載せる必要なんてどこにもないと思いませんか?
 読み捨てられ、消費されていく雑誌ならともかく、十年二十年残して行こうという本に使う文章は充分吟味してほしい。私はそう思いますよ。

 松居 直先生、いかがお思いですか?

プロの自負が阻むもの
 絵本をスクリーンに映し、拍子木や音楽を入れての読み語りで全国を回っているという元俳優Kという人のおはなし会に行った。
 最初に語ったのが水上 勉の『ブンナよ木から降りてこい』。
 40分もの長丁場、しかも他者を犠牲にしてでも自分が生き残りたいという生存本能を描いた、実に重苦しい内容だった。

 うーん、これを幼児や低学年児童に聞かせるのは……(-_-;)  他にも短い作品をやっていたが、絵本の絵に大げさな声色を使った読み方は合わない。笑わせるところでこれでもかとしつこく繰り返したり、自分のおはなし会が全国でどんなに好評かという自慢話には辟易した。正直、途中で帰りたいと何度も思った(小6の娘も退屈していた)。

「信頼できる大人が辛い話、苦しい話をいっぱい子どもにしてあげてください。そうすれば子どもは生きる力を身につけることができます」と、繰り返し言っていたが、それは違うと思う。

 子どもは幼いときに身近な大人から無条件に受け入れられ愛されることで、他人を愛する力や人生を生き抜く力を得るという。
 子どもと本との関係も同じだ。
 子どもは、生きる喜びや、人間っていいな、人生って素晴らしいと思える本をたくさん読むことで人生に対して肯定感を持ち、どんな辛いことがあっても生き抜いていける力を育てることができる。だから、10歳までの子どもには生きる喜びをあふれるほど体験できる本を選ぶべきだ。
 これは読み聞かせやストーリーテリング、文庫活動に17年も関わってきたTさんの知識と体験に基づく持論。私も全面的に賛成している。

 だけど、大人はときとしてこの元俳優のKさんのように勘違いをしてしまうのだ。重苦しい話や教訓的な話が子どもを育てると思い込んでしまうのだ。このおはなし会に参加した大人の中にも「感動した」という感想をもらした人がいたようだが……。

 元俳優のKさんは大きな災害の被災地や学校などを回って読み語りの会をやっている、みんな喜んでくれるのだと得意げに言っていた。だが、本当にそうなのだろうか?

 子どもはちゃんと大人が望むことを知っている。先生に「さあ、感想を書きましょう」と言われて、正直に「楽しくなかった」と書ける子はまずいないのだ。
 この人の読み語りのおかげで本が嫌いになる子が出なければいいけど。

 もう一つ似たような例の話をしよう。
 元女優Tさんはある小学校に乞われて、授業時間に読み聞かせをやった。読み聞かせは初めての体験だったが、その魅力に取りつかれたらしい。その後も他の小学校でやった話を嬉々として教えてくれた。

「『100万回生きたねこ』の話をやったんですよ。長くて時間内に収まらないんで、適当にクリップでページを留めて。ほら、どうせ同じような話の繰り返しだから」

Σ( ̄□ ̄|||)

 驚いちゃいけない。作品に対して敬意も払えないようなこんな人が実際に読み聞かせをやっているのである。保護者や先生方はそんな「先生」の「読み聞かせ講座」を有り難がって聞くわけである。

 豊かな声量で感情を込めて上手に本を読むことが読み聞かせなのだと勘違いしている人が多すぎる。

 さらに難儀なことに、なまじプロという自信があるだけに、こういう人たちは読み聞かせのなんたるかを一から学ぼうとはしない。謙虚な気持ちになって勉強しようなんて気持ちはさらさらないのだ。たぶん、瀬田貞二や松岡享子や松居 直、斎藤惇夫なんて名前も知らないんじゃないか。

 勘違いした元俳優、勘違いした先生や周りの大人。そういう人たちが、子どもの本のために尽くした先人の努力を台無しにしている。

読書は楽しみのためにするもの
 県の教育庁生涯学習課の主催で、子どもの読書活動推進にかかわる専門職やボランティアのための研修やフォーラムが2月に県立図書館で行われた。

 児童文学者の藤井則行氏や児童文学作家の那須正幹氏の講演があったが、偶然にもお二人とも異口同音に同じことを言われた。

「読書をすれば字を覚えるとか教養が深まるとか、勉強と結びつけようとするから子どもが本嫌いになる。読書はただ楽しむだけでいい。そして、子どもに読書をさせたかったら大人が本を読むべきだ」

 なるほどなあと思った。そう言われてみれば、私も活字中毒と言っていいほどの本の虫だが、教養を深めるために読もうとか、これを読んだら人間性を磨けるわとか、そんなことを考えて読んだりしない(もともとそういう類の高尚な本を読まないということもあるが(^^;))。すべては楽しみのため、娯楽のひとつなのである。

 幸い私は児童書も好きなので、大人の本と児童書を居間のテーブルや戸棚、パソコン机の上に無造作に置いている。夕食後の腹ごなしの時間とか、一緒に寝る娘が髪を乾かしている間とか、見たいテレビが始まるまでのCMの間とか、ほんのちょっとの時間を利用してこれでもかと読む。それだけしつこく読書している姿を見せられたら、子どもたちもいやでも影響を受けるというものだ。

 読書家とはいえないまでも、本を読むことに抵抗のない子どもたちはまあこれでいいとしよう。問題はダンナだ。まったくと言っていいほど読まない。別に読書しなくても死ぬわけじゃないし、本人の勝手だけど、困るのは私と子どもたちが一心に本を読んでいるときにプチンとテレビをつけてしまうことである。ものすごく気が散る。子どもはテレビの誘惑に負けて本を置いてしまう。
 私だってテレビは見るが、たまには静かに読書にふける夜もいいと思うんだけど。家の中に図書室が欲しいと願うのはこんなときである。

HOME